未踏作業日誌――余計なもの作るよ!

未踏の作業日誌的なものを書きましょうということで書くことにしました.余計なことばっかりしています.

産業と学術の両方の視点を持つことについて

Twitterでなぜかゲーム開発がトレンド入りした.なんだろうと思ったら,どうやらCEDECの記事とゲーム専門学校の記事がRTされまくっているらしい.どちらも個人的にモヤッと来るものがあり,うーんなんだかなぁと思った.

 

専門学校のほうは,割りと頑張っている学生さんを何人か知っていて,だいたいそういう人はちゃんと就職できている.たぶん,どうしてもやる気でない勢がどんなものか実感がわかないのかもしれない.でも,うちの大学でもそういう人いるけど,少なくとも共同制作の経験は1回ぐらいあるしなぁ.企画志望で何もやってない人は幸いながら(?)一度もお目にかかったことがない.

なので,現実的な問題として,記事の内容が本当にそんな奴がゲーム会社の面接までたどり着けるんかいと思ってしまった.そもそも,ゲーム会社はポートフォリオを要求してくるので,作品がないのに面接まで上がれるのは,たぶん内部的な何かがあったとかそういうのがあるのかもしれない.少なくとも,誰しもが作品を作る世界なので,本当に何も作ってない人がいるのかわからない.ポートフォリオを偽造して潜り込んでくるアホの話はよく聞く.何もできない人でもポートフォリオは偽造するので,作品は必須なもんだと思っていた.作らない人もいるのかな? ということでモヤモヤしていた.

 

もう一つモヤモヤしたのは,遠藤さんと馬場さんと簗瀬さんの記事だった.CEDECは足の不調でエキスポパスで挨拶する程度だったので,本体のセッションには参加していなかった.なので,本当はどんなことを言っているのかはファミ通やYahooニュースなどの記事でしか知らない.

既視感については凄くあるあるネタで,タイトルだけ読んでも「ここ最近だとスクフェスが1年半ぐらいかけて育てたDL数を1週間で塗り替えて凄いよね,ここまでコンテンツ育てると,類似コンテンツに波及するからヤバイよね」と思ってしまう程度にあるある.

内容自体は普通だし,記事で得られる知見を要約すると,「やっぱりオリジナルをやりたい」という話で,残りは今までの知見を共通の言葉で説明している風だった.ただ,読んでいて一番モヤモヤしたのが以下の一節.

また、学会でもゲームには思い出補正があるという議論がたびたび行われるそうで、高校生までに遊んだゲームがいちばん だという人が56%も存在。となると、ゲームは昔のものに勝てないということになるが、20代前半にプレイしたゲームがいちばんという女性が多い事実も発 覚。これは思い出補正ではなく、半数の人が設定や世界観、キャラクターに惹かれているというデータが出ている。よって、設定や世界観、キャラクターといっ た要素は、思い出補正を打ち破れる力を持っている、と述べた。

【CEDEC 2015】ゲーム開発における既視感は“悪”なのか? [ファミ通app]

揚げ足を取るわけではないけれども,現在のゲームより高校までに遊んだゲームのほうが面白いと答えたのが約半数だとして,「設定や世界観,キャラクターなどの要素が思い出補正を打ち破れる」という結論に至るのは,定量的な観点から見て話が飛躍していてよくわからない.もしかすると,記事が要約し過ぎて意味不明になっているだけかもしれない.

 

まず,仮に約56%の人が現在のゲームより,過去のゲームが面白いと答えている.残りの半分は現在のゲームが面白いと答えている人がいる.よって,思い出補正を打ち破れるという結論になっている.

しかし,これは主語が抜けていて,(過去のゲームが面白いと答えている人の)思い出補正を打ち破れる,という結論に取れなくもない.いや,(現在のゲームが面白いと答えている人の)ことかもしれない.この記事の主語がないのでどちらとも取れる.

前者だとかなり具合が悪い.と言うのも,この記事の中では,具体的に過去のゲームが面白い人の思い出補正を打ち破った方法について書いていない.ましてや,その論拠を現在のゲームが面白い人がいたから,と結論付けるのは,あくまでそういう人がいたから,そういう結果になっただけで,「思い出補正を打ち破った」とまでは言えない.

この点が物凄くモヤモヤさせる部分で,結論に対して実践したことが何一つなく,アンケート調査によって現代に生きる人が感じていることが明らかになっただけ,という感想をいだきかねない.講演は見ていないので,もしかすると思い出補正を打ち破る方法を実践したことがあるかもしれない.

 

もう一つモヤモヤしたのは,既存のキャラクターや設定,世界観を共有したら,既視感を滅茶苦茶感じてしまうんじゃないのかと思った点.これがゲームシステムの話だとしても,記事の中で既視感のないゲームが重要だと説明している.だとすれば,なおさらゲームシステムだけ新しくして既存タイトル流用しても,プレイヤーからすれば既視感そのものは拭えないんじゃないかと思った.

また,設定や世界観によってゲームシステムも制約を受けるので,もし既存のタイトルを流用すれば,制約を受けた部分で強い既視感を生む可能性ももちろん高くなる.

そうならないようにゲームデザインすると言っても,過去のゲームを事例として,既視感の有無はちゃんと調査されているのかという疑問もわく.例えば,あるゲームが影響を受けたゲームは何か,どのようなゲームに似ているのかグラフ化して,本当に既視感のないゲームは過去に作れていたのか調査しなければ説得力がない.既視感のあるゲームしか作れていないのに,既視感のないゲームは作れない.

この記事を読んだ限りの感想を書いてしまうと,ある体験をベースにゲームをデザインしたとして,それと同じ体験をした人がいるならば,それは間違いなく既視感になる.だとすれば,色々な人が潜在的に体験していることをベースに,共感するようなゲームをデザインする方向性の方がやりやすいのではないのかなと思う.それは当然,誰しもが既視感を抱くだろうし,既視感がなければ共感を得られないわけだからしょうがない.至極まっとうだしあまりおもしろくない.

 

で,話はそれなりに飛んで,この記事を読んだ限りだと,かなり主観的な内容だし,個人のパワーに依存してしまっている問題がある.特に,こういうのは研究のお作法で言うところの再現性のない問題にぶち当たっている.

よくある議論として,「産業分野は既存のパッケージングばかりだし,再現性のない適当なことをクローズドでやっている」「学術分野はパッケージングもろくにせず,再現性と言いながら動かせるものを作っていない」というのがあって,悲しいかな,産業と学術は猿と犬なんじゃないかと.

確かに,言っていることは両方ともその通りで,両方とも経験があるからこそ,両方に共感できる部分がある.産業の人は学術の人を批判してばかりだし,その逆ももちろん起こっている.産業も学術も,これまでの視点や考え方はたぶん変わらないと思う.

ただ,それだと今までどおりのものを,今までどおりに生産し続けるだけになってしまうので,とてつもなくつまらないものになる.かの記事を読んでいて思ったのは,産業と学術の両方を体感して指導を受けていないと,あまりにも偏った人間になっちゃうかもしれないなぁということ.

やっぱり,産業の人も学術の人も,対極の人を批判しているだけで改めるということがないわけですね.となると,自分はどうするかという部分で,客観的な視点からダメな部分を改めるほうがいい.そういう人が,何かしら新しい物を作る可能性があるかもしれない.

 

そういうわけで,今後ジョブズみたいな人材云々の話で言うと,大学4年まではインターンやアルバイトなどの経験で,産業の視点を身につけつつ,ドクターを取って研究の視点を身につければ,もしかすると何かしら新しい視点を持った人になるんじゃないかなぁとか思った.

批判精神もそうだし,良い物を作るというのもそうだし,どちらかが欠けていると,新しい良い物を作れなくなるんじゃないかなぁ.そんなことを思った月曜日の午後だった.