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未踏作業日誌――余計なもの作るよ!

未踏の作業日誌的なものを書きましょうということで書くことにしました.余計なことばっかりしています.

キャラクターに関する論考

途中で作るの面倒臭くなったので投稿する.後半以降,gdgd書いてしまったので,引用も不完全だし,太字もないし.特に,5層のレイヤーについてフォローできていなくて,章立てミスったなぁと思った.もう一度,論文を書くつもりでゼロから書かないとまずいなぁとは思うけれども,もったいないので公開しようかなと思う.

たぶん,スコープを広く取り過ぎていて無駄に長くなっていて,このペースだと結論を書くのに2倍以上書かないとならないだろうし,無駄に長くなればなるほど節ごとの繋がりが謎になってくる.もっと小分けにしないと非常に分かりづらいと思った.

なので,参考になるかどうかは別として各論歯切れが悪い.どうしたものか…….

1ヶ月ぐらいかけて書いていたので微妙に今とは違うことがかかれてることもあるので(例えば,未踏で取り組んでいるところとか),そこについては無視したほうがいいかもしれない.

結論として3行ぐらいでまとめると,キャラクターが売れる売れないに関わらず,キャラクターは自分の頭の中で育てることでそのイメージが具体化してくる.一方で,そのキャラクターを他人に共有する時は,描写されたキャラクターをより多く消費させなければ,受け手は勝手にそのキャラクターに不足している部分を補足し始め,作者が想像するキャラクター像とかけ離れるようになる,というお話.

こういう分析からキャラクターを工学的に作り上げるメソッドができるようになるといいんだけれども.物事の考え方のほうが重要.

 

 

はじめに

いい加減,自分のプロジェクトの着地点を考えなければならない時期になってきたので,どこかで一発逆転ホームランをやりたい.
 
さすがに未踏で当初提案したキャラメイクになってくると,Black Desert*1が全てやってしまったので,普通にあれを超えるのは時間的・物量的・人月的に洒落にならないぐらい難しい.
 
それなら別のアプローチから3Dキャラクターを作ることを考えてみる.3Dキャラクターだけでは,3次元の図形的な意味合いが強いものの,もう少し抽象的な側面を考えると個性的な部分も3Dキャラクターとして含まれているものと考えることもできる.そっち方面でシステムを考えたい.
 
ただ,その前にキャラクターを作ることについてシステマティックに解釈するために,その思想的なバックグラウンドを整理しなければ始まらない.キャラクターを作るということは,漠然とした方法論となっているため,これを一度抽象的なレイヤーとは何か分析し,何によってプロシージャルにキャラクターを作ることができるか検討しなければならない.この文章はそのためのメモ的なものとなっている.

動くキャラクターと動かないキャラクター

一般的には,紙やディスプレイに描かれているものをキャラクターと指したりする.小池一夫のキャラクター理論の視点で考えた場合,それはデザインであってキャラクターではない.また,資料や設定などの文章もキャラクターを指し示さない.
 
確かに,デザインや設定などはキャラクターを構成するための一要素ではあるものの,それらがあるかと言ってキャラクターが成立するとは限らない.
 
例えば,全くの普通の一般的な中学生が作ったイラストがあったとする.このイラストに描かれた人物を世に広く様々な人に見せたとして,その描かれた人物を消費した人たちにとってはただの絵に過ぎない.生々しいキャラクターとなるには,もちろんストーリーや設定,人物の背景等々,様々な要素が必要であることは想像に難くない.
 
キャラクターはよく動かす,もしくは動くと言い表される.これはいわゆる作り手の言葉とも言える.キャラクターを動かすとは,作り手の想像力によってキャラクターが自然と行動し,物語が展開されるような状態のことを指している.
 
一方,消費する側ではキャラクターが動くと表現される.物語の中でキャラクターが動いているのはもちろんではあるものの,キャラクターが消費する側の想像力によって動いている状態も指している.
 
よく宮﨑駿は過去に作中で描かれたキャラクターが年を取った姿を想像できると言っている.キャラクターが宮﨑駿の中で動き続けているからこそ為せる技でもある.涼宮ハルヒが20歳年を取った姿を想像するのは難しい.同時に,私達が20年後のソウスケを生々しく想像するのは極めて困難とも言える.そのためにはソウスケという人物を想像するために必要な多くのことが不足している
 
これらを総合すると,キャラクターが動くための原動力は,作り手や消費する側の想像力によって成されていると考えられる.もちろん,動かないキャラクターもいることは事実で,そのようなキャラクターには想像力を喚起するための要素を欠いていると考えることができる.

想像力を喚起する要素

キャラクターに関する考え方の一つとしてデータベース消費*2というものがある.データベース消費の中で着目したいのは,キャラクターを構成するための記号を組み合わせることで,モンタージュ的にキャラクターが作られている,という考え方である(ここで書いていることは一部なので注意).
 
例えば,黒いストレートロングヘアーは清楚をイメージさせる.これに少し濡れているような表現を加える事で身だしなみに無頓着なイメージを与えられる.一種のキャラクターをデザインする上での文法としてある程度は蓄積されていたりもする.
 
言語学ではブーバキキ効果と呼ばれる現象が存在する*3.ブーバとキキ,それぞれの言葉を聞いた時,ブーバの場合は丸い図形,キキの場合は尖った図形が想起される.それぞれの言葉が想起する図形は,どの国,どの言語も概ね同じだと言われている.これらのことから,ある程度は言葉の印象から図形,もしくは逆を想起させるために必要な言葉の感覚が存在しているものと考えられている.
 
また,色とデザインと心の関係をまとめるための学問として色彩学が挙げられる*4.特に,色彩心理学では色に関する人間の心の動きをまとめている.
 
これらの例より,形や色によって人間の心の動きというものが体系化されている.黒い髪の毛や赤い髪の毛,金色の髪の毛,それぞれの与える印象からキャラクターデザインが決められたりもする.もちろん,髪の毛だけではない.体型から目の形,アクセサリーの類もどのような印象を与えられるか逆算してデザインされたりしている.
 
これらのことから,キャラクターを構成するための記号は数多く存在していると言える.しかし,これらの記号で重要なことは,過去に赤い髪の毛であったりタレ目であるような,特徴的な記号を持ったキャラクターが消費されたか否か,という点に尽きる.つまり,よく読んで見て消費した人であれば,ひと目でどのようなキャラクターか想像できるのに対し,今まで消費したことのない人から見ればどのようなキャラクターなのか想像もつかない.
 
従って,想像力を喚起するための要素の一つとして,過去にその記号を消費したか否かが問われるものと考えられる.ただし,あくまで一要素に過ぎないため,これを全体として捉えることはできない.
 
また,どのような記号を消費すれば想像力の源となるのか疑問として残る.仮説として,どのような記号でも(人間が消費したコンテンツを無尽蔵に記憶できるのならば)想像力の源となり得る.もしくはコンテンツが印象的か感動的でさえあれば記憶に残るものなので,それが分解されて想像力の源となると考えられる.
 
例えば,マンガのような音の出ない媒体で,なぜか声優の声が脳内再生されることがある.これは声優の声が消費されて記憶にあるからこそ起こる現象であるため,何も消費したことのない人がその声優の声を脳内再生することはできない.
 
これらのことから,想像力の源は過去に消費したコンテンツを分解し,徹底的に記号化されているものが該当するのではないかと考えられる.
 
そのため,過去に消費された記号を用いるのはもちろんのこと,それが記号として記憶されなければ,キャラクターとして成立することは難しいものではないかと考えられる.

客観的な記号と主観的な想像力

 前節ではキャラクターは色や形状を表す記号の集合であることを示した.また,それらの記号の意味するものは,どのようなものを消費したかによって異なることも示した.
 
この二つの関係は,俯瞰することによってシニフィアンシニフィエ*5の関係と酷似していることがわかる.
 
シニフィアンとは,「海」のような具体的な文字や,涼宮ハルヒやカチューシャなどのような具体的な絵や図形のことを表している.
 
一方で,シニフィエとは,「海」という概念や,ツンデレで外向きで気が強いように見えて実は内気で高飛車なキョンが好きな女の子であったり,髪の毛が水色のロングでやや外ハネしててアホ毛が一本立ってるとおっとり内気な性格等のように,記号のそれそのものが表す意味のことを指している.
 
シニフィアンシニフィエは必ず対になっている.認知されないものには言葉も意味も存在しない.例えば,日本人が持っている旨いという感覚は,恐らくジャンクフードばかり食べているアメリカ人にはわからない.日本人は旨いと思えば,旨いと言うかも知れないが,アメリカ人には旨いという感覚自体知らないので,旨いという言葉はない(もちろん例え話として).
 
また,このようなシニフィアンシニフィエの対を記号(シーニュ)と呼んでいる.
 
やや脱線したが,本節冒頭の主張はシニフィアンシニフィエによって補強されている.本題に戻るとして,本論では,キャラクターの形状や設定などを表す記号のことを客観的記号,その記号を見た者が過去に消費した記号によって想起されるイメージ,もしくはその過程のことを主観的想像力と呼ぶ.
 
例えば作り手がキャラクターを作るときのことを考える.
 
作り手はいきなり何の材料もなしにキャラクターをデザインすることは考えられない.少なからずどのようなキャラクターがいいのか,どのようなキャラクターをデザインしたいのか考えることにより,徐々にキャラクターを掘り下げていくのである.このとき,デザインするときに使われる材料というのが,過去の経験であったり,過去に消費したものだったりが当てはまる.
 
ここでデザインの材料とは,絵を書くためのノウハウやキャラクターを作るためのノウハウも含んでいる.場合によっては脚本ありきのキャラクターデザインかもしれない.ヒントが既に与えられているケースもある.ゲームデザインでは動かした時に美しい衣装であることが望ましい.このように作り手の役割であったり職業によって,どのように主観的想像力を駆使してキャラクターを作るかは定まっていない. 
 
晴れて記号としてのキャラクターが完成したとして,デザイン画だけを見せる方法は初音ミクと同じような状態となってしまう.つまり,受け手は多種多様であるがために受け手の主観的想像力で好き勝手なキャラクターに変換されてしまう
 
作り手があるキャラクターを参考にして作ったとしても,その意図は受け手が必ずしも解釈できるとは限らない.これは受け手の頭が悪いとかのような話ではなく,作り手も受け手も吸収している文化的な背景が異なっているからこそ,誰も彼もが同じような解釈にならない.

キャラクターのブレと解釈について

しかし,作り手や受け手の文化的背景が異なると言っても,現実では多くの人が映画や小説,漫画,アニメなどを正しく解釈することができている.
 
そこで正しく解釈していなさそうなパターンと正しく解釈している(もちろん100%ではない)パターンを考える.
 
解釈していなさそうなパターンとして初音ミクや東方が挙げられる.これらは,ほぼデザイン画だけか,もしくはほんのちょっとの台詞があるだけのどちらかとなっている.ここから受け手の解釈が自由に行われているがために,受け手が作り手へと転じた時に,公式のものとはずれているキャラクターが表現される.
 
正しく解釈されているパターンとして,様々な漫画やアニメ,映画などが考えられるが,ここでは攻殻機動隊草薙素子について考える.
 
草薙素子と言えば,同作品の主人公であり公安9課の実働部隊を取りまとめる部隊長でもある(指揮官は荒巻).草薙素子はクールな存在として描かれている.冷静に物事を俯瞰し,事件解決の糸口を探り当てる.9課メンバーの信頼も厚く,彼女の実力が高いことがその信頼に一役買っている.
 
彼女は必ず事件の近くにいることが特徴で,いつも部下へ指示を出している.彼女が主人公となり,なおかつ公の姿ではなく,プライベートな姿を表すことは稀でもあったりする.彼女はいつでも国家公務員(強いて言えば公安組織,国を守るための一員)として振舞っている.私としての姿を晒しているときは,なぜかセクシャルな面が多い.彼女自身が義体であり,なおかつ体全てが国の所有物であることを考えると,物を持つことによって欲を満たすには稟議書やら何やらの提出が必要となるのかもしれない.だからこそ,肉体関係により日々の欲求を満たしている,という解釈が成り立っている.
 
このような解釈もあり得るが,もちろん少年をマフィアから救う話ではよりお姉さん的に見えるため,そう解釈する人もいるだろうと思う.スマートに暗躍して事件を解決するお姉さん,という解釈もあながち間違ってはいない.また,9課のボス的なポジションにいるのも彼女ということも,その解釈における重要な要素の一つであると思う.
 
受け手が持つ文化的な背景や,今まで消費してきたコンテンツによっては様々な解釈が成立する.しかし,それらはどれも正しい解釈であると考えられる.その理由として,仮に作者の伝えたかったことからズレたとしても,キャラクターにエピソードが付随し,草薙素子がどのようなキャラクターであるのか攻殻機動隊の中で語られているため,受け手がそれさえ見てしまえば草薙素子という像がはっきりと見えるのである.
 
正しい解釈,正しくない解釈の2点を鑑みると,受け手が解釈しうる事象として,より高次で抽象的なキャラクターの像,高次で抽象的な像からズレているキャラクターの像,そのキャラクターの像を満たすための必要最小限の記号的要素,描写された(見える形の)キャラクター,個人個人が解釈したキャラクターの像の5層のレイヤーによって説明することができる.

キャラクターと受け手における5層のレイヤー

前節で示したことについてそれぞれ補足をする.
 
より高次で抽象的なキャラクターの像とは,共同幻想的な,概念的なキャラクターの解釈のことである.例えば,100人ぐらい攻殻機動隊を見た人がいて,その人らが最小公倍数的に解釈したキャラクターが当てはまる.そのため,キャラクターそのものがあやふやだったりすると,キャラクターの全体像が削り取られ,全員で共有している部分が小さくなってしまう.本来ならばこれをキャラクターと呼びたいところではあるものの,一物一名の原則に従うとすれば,これをプリミティブと呼ぶ.
 
キャラクターの像を満たすための必要最小限の記号的要素とは,要は緑色のツインテールがネギを振っていれば初音ミクみたいな,ある程度の記号が揃えばそのキャラクターをうまく想起できる最小限の記号のことである.例えば,青い髪の毛,アホ毛,ωな口,泣きぼくろ,気だるいような目,これらがあればらき☆すたこなたを想起できるギリギリの状態となる.これを便宜的にシェルと呼ぶ.
 
高次で抽象的な像からズレたキャラクターとは,同じ初音ミクであっても,Tda式なのか銀獅式なのかでそのキャラクター性は大きく異なる.この同じキャラクターでも別のキャラクターのようなものがズレたキャラクターのことである.ここでは伺かに敬意を表して便宜的にゴーストと呼ぶ.プリミティブが総体的なのに対し,ゴーストは相対的な存在である.プリミティブと比べて確かにズレているかもしれないが,像としての形はプリミティブもゴーストもそれほど変わらないのである.
 
必要最小限の記号をどのように描くかが,描写されたキャラクターのことである.美水かがみが書くこなたなのか,京アニのそれぞれの作監が描くこなたなのか,それとも蛸壺屋なのか雷神会なのか無名のイラストレータなのか.それぞれが描くこなたはテイストが異なる.この,誰かが描写したキャラクターのことをパーソナルと呼ぶ.ここまで具体的となると,個人と描写されたキャラクターはより密接な存在となる.
 
最終的に受け手の中にイメージされるキャラクターのことをイマジナリと呼ぶ.イマジナリはシェルもしくはパーソナルを通した主観的想像力の産物である.受け手の中で動いているキャラクターは記号的でありながら,想像的な側面も見せる.今までは記号と意味を分解することでそれぞれのレイヤに分けていたが,これらの重ね合わせによって最終的なキャラクターのイメージが完成されるようになる.

受け手による物語の再生産

受け手の中で想像されたキャラクターは自然と物語を生み出すようになる.このときの想像力そのものが創作力と結びついて何かしらコンテンツを生み出すようになることがある.しかし,大半の人は絵が書けなかったり,動画を編集したり,Flashを扱ったりすることができない.そのため,創作力のない大半の人は漫画のコマとコマの間を想像したり,誰かが書いたイラストが動いている姿を想像して満足している.
 
仮に想像して満足しているだけであったとしても,一人のキャラクターは受け手の中で生産される.そしてその生産されたキャラクターを消費し,また生産するということを繰り返す.実際のコンテンツの消費と,受け手の想像力からの消費を繰り返すことで,やがてキャラクターはキャラクターの意思に従って動くようになる.
 
例えば,機動戦士ガンダムUCミネバ・ザビについて考える.彼女は一応ジオンのお姫様という設定で,ただの箱入り娘ではなく,それなりの権限を与えられた偉い人となっている.オフのときはオードリー・バーンという仮の名前で動いている.
 
受け手の想像力は自由自在で,ニコ・ベリックみたいなミネバ・ザビを想像することは難くないだろう.しかし,そのようなことを受け手が決してしないのは,彼女が一国(?)のお姫様で礼儀正しく,ホットドックを綺麗に食べて包み紙をポケットに仕舞うぐらい行儀のいい,というキャラクターが受け手の中で固まっているからである.このようなことを俗にキャラクター崩壊と呼ばれているが,フォークを逆手で持ってお墓を建てるミネバを想像することは,楽しいかもしれないがとても見苦しく感じる.意識的に想像し続けることはできても,無意識的に想像するのは難しいだろう.
 
ただ,キャラクターに関する情報や蓄積がない状態であれば,ほんの少しだけブレが生じることもある.例えば,同じ初音ミクでもTda式なのか銀獅式なのかナルパジンの作った奴なのかで,そのキャラクターの振る舞いは異なる.これは個人に関しても言えることで,受け手の想像力の範疇の中でキャラクターは作り手の意図を無視して歪められる.これは受け手がどのように育ってきたのか,どのようなコンテンツを消費してきたのかで大きく左右される.そのため,稀にニコ・ベリックのようなミネバ・ザビが生み出される余地を残している.ちりも積もれば山となるように,キャラクターもブレが大きくなればこのようなことも起きる可能性がある.
 
キャラクターは受け手が消費する中で,そのキャラクターの個性や性格,振る舞いなどが蓄積される.受け手はその蓄積されたものの中で想像している.もし,ミネバ・ザビ描写のされ方が少し前のアニメであれば,受け手の中で礼儀正しく行儀のいいキャラクターとして想像されることはない.受け手は何かしら提示されなければ想像するための火種を灯すことができない.
 
例えば,初音ミクは単なるDTMプラグインとして発売された.しかし,それが今,キャラクターとして全世界で愛されているのは,そこにキャラクターとなるための火種が存在したからである.その火種を中心として受け手の想像が想像力と結びつき,創作が繰り返されることによって今の初音ミクがある.もし,当時流行したIevan Polkkaと初音ミクが結びつかなければ,まだパッケージに描かれたデザインの一つだったかもしれない.
 
受け手が想像するのはイラストのような静止画ではない.キャラクターはほぼ必ず物語の上で動いている.物語と言っても脚本によって完全に支配されているものから,単なる思いつきで喋っているだけのキャラクターもいる.また,ただキャラクターがある空間を歩いているだけのものも,ある種の物語として広く解釈することもできる.受け手が想像する物語とは,多くの場合は何の脈絡もない.しかし,この何の脈絡もない物語が,受け手のキャラクターの再生産を助けている.
 
ここで受け手が想像する物語とは,例えば艦これにおける様々なキャラクターだったりする.ある人の中では天龍はいじられるような存在だったり,愛宕はお姉さんみたいな存在だったり,雪風島風は少し馬鹿っぽくて幼い存在だったりするが,展開される物語はそのようなキャラクターから導き出される,より自然な流れのようなものである.天龍はいじられることで赤面するようなエピソードが,より自然に想像され,それが自分の中で消費される.
 
もともと天龍はいじられるようなキャラクターではなかった.公式の時報ボイスや砲撃ボイス,あるいは戦史を見たとしても,いじられるという合理性はあまり感じられない.しかし,天龍は少し怖い(プラスかわいいヤンキーっぽい)キャラクターとして設定されていたのは事実で,いつしかそれがねじ曲げられて,いじるには十分なキャラクターとなっていた.
 
ここでいきなり受け手の想像力によっていじられるキャラクターが編み出されたとは考えにくい.何度も艦これをプレイし,彼女の存在が吟味されることによって,いつしかいじることのできる余地が受け手の中で生まれ,天龍をいじり倒すことによって彼女が生まれたのではないかと考えられる.
 
この天龍をいじる一つ一つのエピソードがいわゆる物語の一つであり,それが受け手の中で再生産され続けられ,さらには作り手に転じたことによって,いじられる天龍が生まれたと考えられる.
 
もし,何らかのプロジェクトでいきなり面識のない図形だけのキャラクターを作って映像を作るとなると,そのプロジェクトメンバーたちにとって何をやればいいのかわからないだろう.キャラクターを動かすための材料がないため,キャラクターの図面だけで各々の消費活動を行う.従って,再生産されたそのキャラクターは間違いなくバラバラな状態となり,個人によって生産されるキャラクターというものが異なるものと考えられる.

キャラクターを作る

キャラクターを作るということは特殊な方法と思われていることが多い.数年前まではキャラクターを作るとはその背景を考えたり,葛藤や目的は何か考えたり,性格等のプロフィールは何か詳しくすることを指していた.しかし,これらは単なる物語を作るためのプロットや舞台設計に過ぎない.キャラクターとは,崖に落ちそうな人が居た時,どのように考えてどのように振る舞うか,ということを具体化することである.そのキャラクターがどのように動くのか,キャラクターに対する期待そのものを作り上げていくことである.
 
また,よくある話として,売れるキャラクターとは何か考えることについては除外する.注目したいのはキャラクター個人がきちんと動いてくれるかどうかである.売れるかどうかは長い物語のプロットのたて方に近いものがあるため,本論に対して脱線している形となっている.
 
先の受け手による再生産の話に照らし合わせると,あるキャラクターを使って,物凄く数多くのエピソードを作ることで,キャラクターのイメージが補完されていくと考えられる.それらエピソードを周りの人達が消費することによって,そのキャラクターが持つ個性や性格,資質等が加味され,受け手の中で動くようになる.
 
しかし,ただ白紙の背景でひたすらキャラクターが何かをしている状態のものを書いていても,それは白紙の上でポーズを取っているものとなってしまう.受け手にとって重要なのは,そのキャラクターが編み出している物語があるかどうかである.その物語が受け手の中で新たに展開され,新しい創作の種となる.
 
また,キャラクターはすぐに完成されることはない.どの漫画でも1巻よりも最終巻辺りのほうがキャラが立っていることが多い.これは作家とキャラクターの中で対話を重ねることにより,作家自身がキャラクターを理解したことに他ならない.作られたばかりのキャラクターとは,いわば他人に近い状態とも言える.なぜならば,そのキャラクターについて設定や性格等もそうではあるが,どのように行動する一人の人間であるのか理解できていないからである.キャラクターについて理解できていなければ,どのようにキャラクターが動くのか予想することができない.
 
例えば漫画の最初期に作られたキャラクターには強い違和感がある.これは,作り手がどのようなキャラクターであるか把握できていないか,もしくはコマ数の制限でキャラクターを表現するための隙間が足りなかった等の問題がある.このような違和感は読者も同様に,読者の中にキャラクターが作られないことに寄って起こりうる.
 
一方で,漫画の最終巻辺りにもなると,作り手と受け手の双方でキャラクターに対して理解が深まっていることもあり,そのような違和感がほどなく消えてくる.作り手のキャラクターに対する期待が,作品に反映されると同時に,その作品が受け手の期待に応える形となっているからである.この,双方の理解と期待が果たされない場合,それはキャラが立っていないという形で如実に表現される.
 
これらのことを考えると,キャラクターを作るとは,いかにキャラクターのことを知り,理解し,その期待に応えるか,というところに焦点が当てられる.舞台設計や事件の大筋は既に決まっているものとして,その世界にキャラクターが産み落とされた時,どのような人間であるのか理解するのが肝要である.即ち,キャラクターとの対話である.

キャラクターとの対話

例えば,あるキャラクターの癖はこうだ,嫌いなシチュエーションはどのようなものか.いわゆるキャラクターを構成すると言われている要素をひたすら埋めるとする.しかし,作り手ですらこのような設定に矛盾をきたすこともある.設定をひたすら考えることで豊かなキャラクターを作ることは困難を極める.確かに,そのキャラクターに暗い影を指しているのは生まれた環境が原因なのかもしれないが,あくまで環境が先行して存在しているからこその結果であり,キャラクターがいるからそのような環境が作られたと考えるのは,あまりにもキャラクター中心過ぎると考えられる.
 
キャラクターと対話するとは,そのキャラクターがどのような人物であるか感覚的に理解するということでもある.どこそこの変な教授は,きっとこうなったときこうするだろう,という期待を積み立てるということである.
 
小池一夫が唱えるキャラクターを作る方法の一つとして,1日1人キャラクターを考えるというものがある.これは表現力を磨くための一つの方法として有効であるが,キャラクターを育てるという意味では場当たり的である.それはいわゆる,様々なキャラクターの表現力を鍛えることで,意外なキャラクターの外見を考えるという意味では的を射た方法である.一方で,この方法は売れるキャラクターを作るための表現力(作り手のクセなど)を鍛える方法である.そのため,キャラクターの内面に対して焦点は当てられていない.
 
また,高橋留美子はひたすら白紙を見ながら書くものを考える,という方法も提唱されている.書くものが見つかるまでひたすら白紙と向き合うことは,運慶のように木の中に眠っている仏像を探すような作業とも言える.しかし,こちらはどちらかと言うと,既に生きているキャラクターを漫画の上で走らせるための方法とも考えられる.
 
これら二つの手法は表現に特化した訓練・思考方法であることは間違いない.ただし,キャラクターの内面を育て上げるという意味ではどちらの方法も的確ではない.また,頭に住んでいるキャラクターを育てることと,そのキャラクターを絵柄などで表現することはまた別である.
 
キャラクターと対話するとは,しばしばその頭の中に住んでいるキャラクターに話しかけて理解することと例えられる.漫画や小説の読者は,それら媒体で描写された内容を頭の中で想像し,それをキャラクターへと変換している.読者は媒体を通してキャラクターを見ていない間は,その頭の中に存在しているキャラクターと対話している.これは作り手も同様で,頭の中で想像したキャラクターを表現し,表現されたキャラクターを取り込むことを繰り返して対話を行っている.

キャラクターを作るための手法

滝本竜彦超人計画」の中で,作者はしばしば綾波レイ(だったと思う)の脳内人間と会話を行っている.まるで幻覚のようにリアルで生々しい存在として描かれている.また,本当に存在していると強く思い込むことで,あらゆる近くを誤魔化し,架空のキャラクターを実体化してしまう人がいると言われている.キャラクターを作る行為においてこれはやり過ぎとも言えるが,理想としてはつまりこのような人間が存在していると規定し,その生々しいキャラクターの内面まで理解するということである.
 
その方法として,キャラクターに期待することを,キャラクターの自己表現として定めることが挙げられる.キャラクターとして自然な行動とは何か,それを繰り返し想像することで,キャラクターに期待している行動を取るようになる.幸い,人間の想像力は演技者に指示を出したりせずとも,キャラクターそのものを錬金術のように作り上げることができる.しかし,その錬金術は生み出した小石を積み上げるようなものである.
 
例えば,聲の形に登場する佐原こよりについて考える.細部の設定について端折るが,佐原こよりは小学生の時,いじめに遭い,中学生まで保健室登校をしていた.主人公の石田は高校になって佐原との小学校以来の再開を果たした.佐原は小学生の頃のような内気なキャラだったが,石田と再開を果たすまでに何かあったのか,外交的な性格を垣間見せる.
 
内向的な性格から外交的な性格への変化を表現するのに,作者は後輩の存在とファッション,さらには仕草などを利用している.佐原はいじめられて不登校になっていたのにも関わらず,高校では後輩に慕われている設定となっている.それを表現するのに,場面の区切りに後輩に呼びかけられる描写を入れている.また,石田たちとカラオケへ行くときは,小学生の時は地味な出で立ちだったが,昭和のアイドルみたいな髪型と,体形を強調しつつ,ロングコートやハイヒール,縦セタ(?)など,スマートで直線的な服装で固めている.背も石田より高く,初対面の相手には目線を合わせて握手するなど,彼女の変わり方はとても不登校だったとは思えない.
 
現在,3巻まで出版され,ちょうど今いいところで,これらの描写は佐原の変化を示す伏線とも考えられなくはない.
 
それはいいとして,ただ不登校キャラが明るくなった,というだけの設定が取って付けられていると,このような表現は難しい.要はキャラの動作からビジュアルまで何もかもが細かいのである.また,設定が細かいからと言ってキャラクターは表現できない.小池一夫はキャラクターは動きだと説いているが,キャラクターは設定に宿らない.設定はもちろん大切であるが,その設定をベースとしてキャラクターがどのような人物なのか理解することで,だんだんとキャラクターの像がはっきりと浮かび上がるようになる.それはいずれ表現する媒体の中で,そのキャラクターが物語中でそのような行動を取るための必然性(リアリティ)として描写されるようになる.
 
そのためにはまず,最低限の舞台背景と人物設定は必要である.
 
特に,舞台背景は先に必要となってくる.なぜならば,核戦争で荒廃した世界観と,ご近所同士の明るい商店街では住んでいる人々の価値観が異なりすぎる.ちょっとしたことで粛清される世界であれば,概ねほとんどの人間が疑心暗鬼で,むしろ人を疑わないピュアな人物は異端かもしれない.持ち前の性格は社会によってある程度は歪められるため,そのことを念頭にどのような人物なのか最低限の情報を当てはめるべきである.
 
これによって作られたキャラクターはまだ履歴書を読んで概要を掴んでいるだけに過ぎない.どのような人物であるかはそれこそ対話を重ねる必要がある.日常生活をどのように送っているのか,友達と遊びに行くのにどうするのか,兄弟げんかはどうしているのか,嫌いな相手に絡まれたらどう対応するのか,様々なシチュエーションが考えられる.リアルな人間であればここまでプライベートなことを突っ込むことは難しいかもしれないが,相手は想像上のキャラクターなので,想像によって補うことが可能である.
 
対話を繰り返すうちに,苦労して想像していたことが,まるで何らかの意思を持って勝手に行動をしている状態となる.俗に言うスティーブン・キングのキャラクターが転がっている状態とも言える.ここまでキャラクターが作られると,キャラクターは自然と動きまわるようになる.後は,物語の仕組みに乗せるだけで,事件の上でキャラクターが動き回るようになる.

作り手による共同幻想の作り方(理論的な補足)

キャラクターを作り手が想像できたとしても,それはあくまで個人の中にキャラクターが住んでいるだけに過ぎない.いわばまだ自己幻想的でキャラクターは多くの人に見てもらっていない.このキャラクターを例えば編集さんに見せた段階でキャラクターは大きく変性する.なぜならば,これまで作り手が脳内で作り続けて得た情報量と,紙に書いて見せたキャラクターの情報量は圧倒的に違うものがある.そのため,編集さんは作家のキャラクターをその段階では100%理解することはできない.
 
しかし,作り手もキャラクターを想像するように,受け手もキャラクターを想像してしまう.作り手の連載ペースが無限に高速であれば,100%のキャラクターを受け手は享受できるのであるが,現実的にそれはあり得ない.そのため,わずかながら受け手と作り手の間に,わずかながら認識のズレが生じてしまう.そのズレが大きくなれば大きくなるほど,例えばガチレズ大井のような本来ありえないキャラクターとして誰かに描かれてしまうことがある.
 
そのズレた状態のキャラクターがまた別の作り手によって消費され,それがイラストとしてのキャラクターとして描写される.これが放置されたまま繰り返されたのが,いわゆる艦これ初音ミクのようなUGC的なキャラクターである.一度ズレてしまったものが描かれてしまうと,受け手にとってそのズレが当たり前になる.いつの間にか東方のように,原作がおまけになってしまうこともある.
 
これらのズレを防ぐ手段としては,単純に1つの創作単位(週刊誌の漫画なら,1つの掲載スペース,アニメなら1話など)に情報量を詰め込むことである.思いやりのあるキャラクターを描写するためだけのストーリーを挟むのではなく,コマとコマの間であったり,短い2秒ぐらいのカットの中で,思いやりのあるキャラクターであることを行動で示させることが肝要となってくる.
 
先の聲の形の佐原であれば,外交的で優しい先輩で慕われている,ということを表現するのに1コマだけ使っている.二人の後輩が佐原に手を振って呼びかけるだけで表現できるのである.このような小さいが多くの意味を含んでいる表現を詰め込むことで,そのキャラクターの情報量が加算される.受け手はこれらの表現を受け取った前提で二次創作に励む.完全に別キャラクターで二次創作が認められるのは,受け手同士にそのキャラクターで表現してもいいという,合意が存在するからである.
 
もう一つの方法としては,とにかく数を出す,ということである.UGCとして成立するキャラクターがなぜ,そのキャラクターとして多くの受け手同士で合意が取れているのかと言えば,その描写されているキャラクターが数多く作り手によって生み出されているため,総体としての情報量が極めて多くなっているということである.連載作家一人と二次創作の絵師百人では,後者のほうが多くの情報を配信することができる.
 
これは極端な例であるが,UGCの波に乗っているキャラクターは,バックに百人の作家集団を抱えているようなものに等しい.創作ペースも消費ペースも明らかに違う.一人の作家として情報量を埋めるという方法について,数を出す,ということは難しいことかもしれないが,それは先に述べた一つのイラストの中に情報量を詰め込むなどで穴の空いた部分を埋めることが望ましい.もちろん,物語に対して干渉しすぎると,物語本体に影響を与えてしまうため,さじ加減がなかなか難しい物がある.

おわりに

半分以上,インターネットに繋がっていない環境で書いたため引用が不完全である.このキャラクターに関する考察のベースとして,バルトの記号論ソシュール言語学クリステヴァ間テクスト性吉本隆明共同幻想論と都市論,大塚英樹や小池一夫のキャラクター論等を参考にしている.前半は各論に分割して書いたが,肝心の後半は各論を混ぜあわせているため,どこからどこまでがどれ,という判断が難しい.
 
頭の中でキャラクターと対話し,一人の人間として理解する方法についてひたすら述べてきたが,これはシステムではなくどちらかと言うとメソッドであると実感している.人間の脳みそほど創造的で,高速で,しかも自由な処理系は存在せず,人間の脳みそでやったほうが明らかに効率的である.また,人として理解するのに,この人はどんな人間だとメモするのもナンセンスである.その間,キャラクターを観察したり対話を重ねたりして理解に努めるほうがいい.連載なり創作が始まってしまっては引き返せない.
 
キャラクター表現は苦手なので,結局は未踏で最初に提案した内容に戻ってしまった.キャラクターとは,記号であるという前提に立てば,その記号を元にモデリングするためのシステムがあれば便利だと思った.
 
1ヶ月ほどかけてこれを書いていたが,さすがに未踏の契約期間が差し迫ってきたため,一度ここで筆を置きたい.